絶唱は海の彼方に-杏真理子に捧ぐ-

2021年1月31日(日)

 

「さだめのように川は流れる」を歌う、杏真理子さん。

今回は、歌手の杏(きょう)真理子さんについて書こうと思います。

 

杏真理子さんは1949年生まれ、青森県三沢市出身。
混血児で、父親もいないことから、幼少期から相当辛い経験をしたのではないかと察することが出来ます。
1968年に故郷・青森県三沢市を離れ、札幌市へ移住。

札幌のクラブ「キング・オブ・ヒルトン」、ミュージック・バー「ジョージの城」等で人気歌手となり、
その話題を聞きつけた作曲家の彩木雅夫先生が、彼女をプロの歌手へ導いたとお聞きしています。

 

1971年、当時の月刊誌より。
杏真理子と先輩の安倍律子さん。

 

プロデビューしたのは、1971年4月25日(日)。
デビュー曲は、阿久悠さん作詞、彩木雅夫さん作曲の「さだめのように川は流れる」です。
生前、5枚のシングルレコードと1枚のアルバムをリリースしました。

 

1971年デビューのホープとして、紹介されました。

作曲家の彩木雅夫先生に直接お聞きしたところ、

「さだめのように川は流れる」

は当初、阿久悠先生の歌詞が4コーラスまであったそうです。
ですが、あまりに重く、狂気を感じるものだったそうで、
よりシンプルなものに修正されたと、お聞き致しました。
そして、エンディングのアレンジは、ショッキング・ブルーのヴィーナスをイメージしたとおっしゃってました。
なぜかというと、杏真理子がステージでよく披露していた歌だったからだそうです。
彩木先生曰く、ドアーズの「ハートに火をつけて」を歌っている杏真理子が一番かっこよかったと、
当時を回想しながら語られていました。

 

3枚目のシングル「雪わり草」は、捨てられた女の「涙」を「雪」で表現した渾身の一曲です。
「まつ毛に夜が更ける」ほど泣いて、「一度は死のうとまで思い詰めて」と悲しみながらも、最後には、
「明日は雪も晴れるだろう、泣くのはもうよそう」と、雪を割って生長する「雪わり草」のように、強く生きようとする様が浮かびます。
彼女の最高傑作と言ってもいい楽曲でしたが、売り上げは振るいませんでした。

 

多くの哀しみを持った彼女だからこそ、歌に魂が宿るのでしょう。

 

続く、4枚目のシングルは「地下鉄のスー」でした。

1972年5月発売。
作詞:阿久悠、作曲:彩木雅夫
この年、札幌冬季オリンピックが開催され、それに間に合わせるかのように札幌市内に地下鉄が開通しました。
1971年12月16日のことです。
彩木雅夫先生によると当時、杏真理子のために何曲も作ったそうです。
しかし、どれも採用されず。
杏真理子のイメージを暗く、重いものにしたいプロデューサーの想いから、求められたものはマイナーコードの曲ばかり。
シングル3枚出して売れず、4作目の頃にはもう杏真理子に誰も期待しなくなった。
それを逆手に取ったのが、阿久悠先生と彩木雅夫先生。
「どうせ売れないなら、杏真理子らしい曲を作ろう!」
と、開き直ったのだそう。
プロデビュー前、札幌のクラブ歌手として活躍していた杏真理子さん。
それもあってか、当時の札幌にちなんだ歌にしたかったそうです。
僅か3分の歌のドラマですが、短い歌詞ながら伝えたいことが端的でわかりやすい。
地下鉄から階段を上り、地上に出て、その日差しの眩しさに圧倒され、

「アスファルト、裸足で歩いてみたい」

なんて、いかにも彼女らしいファンキーでかっこいい曲です。

 

1972年にはテレビドラマにも出演しました。

 

1973年3月から約3か月、杏真理子はアメリカへ渡りました。
アメリカで本格的な歌のレッスンを受けるためです。
そして帰国後、新曲を出す予定でした。
しかし1973年9月、強固な想いで彼女は再びアメリカ行きを決意したのです。
結果として、それが彼女の不運を決定付けてしまいました。
ピアノ・バーで歌のアルバイトをしながら生計を立てていた矢先、杏真理子は25歳の若さで亡くなってしまったのです。

 

惨殺されたことだけがクローズアップされ、今読んでも悲しいです。

 

当時の週刊誌は、全て読みました。

 

どんなにか、無念だったでしょうね。

 

笹沢左保さん(1930年~2002年)と言えば、日本を代表する小説家として知られています。
テレビドラマで大ヒットした中村敦夫さん主演の「木枯らし紋次郎」、そして杉良太郎さん主演の「同心暁蘭之助」の原作者としても有名です。
また、いかりや長介さん主演のテレビドラマ「取調室」も笹沢左保さん原作です。
「取調室」は全19回あり、いかりや長介さんが亡くなる直前の2003年まで続きました。
私は時間のあるときに小説を読む程度で、読書やドラマとはまるで縁がなかったのですが、
昔をよく知る方から、
「笹沢左保先生は当時、歌手の杏真理子のファンで、確か杏真理子を偲んだ小説を書いているはず」
とお聞きしました。
それがきっかけとなり、古本屋さんを巡り、結局はインターネットで探し、ようやくその本を手に入れました。
短編小説のタイトルは、

「絶唱は海の彼方に」

でした。

杏真理子の亡くなり方だけ取り沙汰され、彼女の歌手としての評価が全くされなかったことが、笹沢先生は悔しかったのでしょう。

 

「絶唱」という言葉に深く感動致しました。

この小説では、一年前に亡くなったはずの杏真理子がなぜか、

「まだ生きている」

設定です。
しかも、札幌のクラブで歌っているのです。

アメリカで杏真理子が惨殺されたというニュースは、笹沢先生も相当なショックだったに違いありません。
なのでせめて、小説の世界だけでも彼女の想いを実現したい。
そう思った時、杏真理子が大好きだった札幌に戻ってきて、札幌のクラブで歌っていたということにしたかったのでしょう。
さらにこの小説では、杏真理子はアメリカではなく札幌で最期を迎えています。

「誰も知らないアメリカではなく、杏真理子の歌を認めてくれた札幌で葬ってあげたい」

という、笹沢先生の願いでもあると思います。

 

小説のほとんどが杏真理子への熱い想いでした。

杏真理子の最期のシングル、「あやまち」。
この詩こそ、彼女が長年悩み苦しんでいたテーマでしょう。

「痩せた犬に吠えたてられ、人に石を投げつけられ」

私が何をしたというのか。

「悪いあやまち犯したように、悲しい!」

父親のいない混血児。

ステージで、

「あいの子!」

と、声がかかると、彼女は落ち込んで言葉を失ってしまったそうです。

「あなたは私の何かを嫌った」

作詞家の千家和也先生は、そんな彼女の苦しみ、哀しみを描いたのだと思っています。

 

1972年9月発売、杏真理子「あやまち」

殿さまキングス「なみだの操」、内山田洋とクールファイブ「長崎は今日も雨だった」などのヒット曲で知られる、作曲家の彩木雅夫先生。
現在は「まさP」として彩木雅夫feat.初音ミク名義でアルバムをリリースするなど、87歳の今なおご活躍されています。
私は何度も懇願し、ようやく彩木雅夫先生にお会いすることができました。
2018年12月のことです。
嬉しさ余って、質問することをたくさん用意して臨んだのですが、先生もご高齢ですので無理はさせられません。

 

2018年12月、初めて彩木先生にお会いしました。

その彩木雅夫先生が2018年9月に、「さだめのように川は流れる」の初音ミクバージョンをリリースしました。
私は、なぜ初音ミクバージョンなのか、その経緯をお聞き致しました。
すると先生は、杏真理子に対する敬意だとおっしゃってました。

「今、あれだけの歌手はいない」

今の歌手に、あの歌は歌えないよ。
だから、初音ミクなんだよ。

「彼女に申し訳なかった」

素晴しい歌手だったのに、人気者にしてあげられなかった。
そして、その亡くなり方があまりに悲劇的だったために、杏真理子の存在自体をずっと封印していたそうです。
しかし、なぜかふと、杏真理子のことを思い出したとおっしゃっていました。

スタジオに100時間以上籠り、できる限り杏真理子の声に近づけたそうです。

 

彩木雅夫先生から頂いた、サイン色紙。

 

2017年2月22日にリリースされた杏真理子コンプリートシングルス+

2017年2月22日、まさか杏真理子の全曲集が発売されるなんて、誰が思ったでしょう。
しかも彼女の古巣、レコード会社の大手、日本コロムビアからの発売ですから。
しかし、彼女の歌を待ち望んでいるファンにとってはこの上ない喜びです。

作.AC北海道メンバーも呆れながらも、杏真理子が好きなようです。

 

祐季が初めての給料でプレゼントしてくれたのは、杏真理子マグカップでした。

 

大聖が初めての給料で、杏真理子の携帯充電器。

 

樹からのプレゼントは、杏真理子の携帯ケース。

 

直輝さんからランニング講習会150回記念に頂いた、杏真理子置時計。

杏真理子が亡くなって早や47年。
誰にも思い出されず寂しかったでしょうね。

ただ、彼女は惨殺されたことを恨んでいるわけではありません。
みんなに思い出してほしいと、自身の歌をみんなに聴いてほしいという欲もないはずです。

ただ、

「私の歌を認めてくれた札幌に還りたい」

そして、

「私の歌を褒めてくださった彩木雅夫先生に一言お礼が言いたい」

それだけだと思います。
彼女は贅沢は望まない人です。

これからも、陽の目を浴びることはないでしょう。
だからこそ、彼女の歌は細々と生き延びているのだと思います。

 

昨年の秋、澤井玄さんと。

 

 

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 この先もずっと、「走り」を楽しみ、「競技」に熱くなり、多くの「仲間」と共に走り続けられる。そしてランニングを通してこそ経験できるランニングスタイル"LIFE with RUNNING"を大切にするチームとして作.ACは活動を続けていきます。

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